アスファルト乳剤の歴史


1.はじめに

 アスファルト乳剤は,我が国においては大正の末期から使用され,70年以上の歴史をもつ舗装材料である。
 戦前においては東京市を始め市街地の舗装に活躍し,戦後はカチオン乳剤や路上安定処理工法,いわゆるスタビライザー工法などの新技術の開発もあって,防塵処理や簡易舗装へと大量に使用され,我が国の経済発展に貢献してきた。
 しかし乳剤生産量は,昭和45年の71万トンをピークに年々減少し,昭和55年には30万トン台になり,以後は30万トン強の横ばいとなっている。
 減少の理由としては,第一に全国の市町村道で施工されていたスタビライザ工法が,舗装率の向上とともにより高品質を求めるニーズに合わなくなったことである。
第二の理由は各自治体が失業対策事業として行っていたアスファルト乳剤舗装を主とした直営施工班方式が,日本経済の発展によりその意味を失い,加熱アスファルト混合物を主とする請負方式に代わっていったためである。

2.アスファルト乳剤の歴史

2.1起 源

 アスファルト乳剤は1906(明治39年)に米国のカールマンが特許を得,1909(明治42年)にはドイツのレインホールド・ウオルマンが防塵,防水用に製造したという記録がある。
 道路用材料として市場に出たのは1915(大正4年)頃,コールドスプレーと呼ばれて,イギリスで砂利道の瀝青路面処理に用いられて以来と考えられる。

2.2 乳剤舗装の幕開け

 大正12年の関東大震災は広域な被害をもたらした。
その後復興計画には土地区画整理,道路拡張に重点が置かれ,我が国で初めて舗装事業が大きくクローズアップされたのである。
 大正15年に入って東京市は,従来のアスファルトコンクリートのいわゆる高級舗装では費用がかかり過ぎることから,乳剤の研究を開始した。
 また一方では,1909年(明治42年)ドイツで発明されその後改良を加え,英・独の特許製品となった舗装用乳剤ビチュマルスを,業者が試験的に輸入し校庭などの舗装を行い,昭和2年には内務省土木試験所が,輸入されたビチュマルスを使って道路での試験舗装を行っている。
 これが乳剤舗装の試験・研究の始まりで,また我が国に乳剤舗装を導入した最初であり,簡易舗装の草分けとなった。

2.3 我が国初の乳剤製造

昭和2年に東京市は,乳剤の製造法を完成させ,昭和3年には道路課試験所直営の乳剤工場を設置して,わが国初の製造を開始した。
東京市が乳剤舗装に着手したとき,乳剤業者は採算を度外視して全国的に無償で試験舗装を行い,東京市と一体となって乳剤舗装の普及に努めた。小さな町では,試験舗装だけで全長が舗装されるという効果により,乳剤は全国を風靡した。
 一方,業界では過当競争を抑制し,業界の健全な発展を計ろうとする機運が次第に高まり,昭和10年頃には「瀝青乳剤連合会」が結成された。
如露型散布器で乳剤撒布 フルイで目潰し砕石撒布
手引きローラ 東京瀝青混合所小台工場構内の一部
2.4 太平洋戦争の勃発

 昭和15年,米国による日米通商条約の失効以来原油の輸入が全面的にストップし,乳剤の原料であるアスファルトの入手が困難になり,民間企業に対する石油の供給は,厳しい統制下に置かれた。
 この石油配給統制規則は,乳剤をはじめ石油二次加工製品の製造を禁止する内容が含まれていたのである。
 法人格の組合を結成するようにとの商工省の指導により昭和16年3月,「日本瀝青乳剤工業組合」が結成された。同年7月に,米国はわが国の在来資産の凍結を計り経済封鎖を行った(ABCD経済封鎖)ことから,石油の輸入は途絶え,日米関係はますます悪化の一途をたどり,遂にこの年の12月8日,わが国は米英両国に宣戦布告,太平洋戟争が勃発した。
 石油不足により,わずかな国産の原油を極端に精製してガソリンを絞り出すため,アスファルトの品質は粗悪になり,そのままでは舗装材料としても使用できない状態であった。この時期のアスファルト乳剤の生産は,原料の価格高,数量減という状況下に置かれた。
その代用品として,土瀝青,タール,硫酸ピッチ,パルプ廃液などの利用が考えられ一部使用された。

2.5 戦後の復興と道路整備

 昭和20年8月15日わが国はポツダム宣言を受諾,無条件降伏により太平洋戦争は終結した。戦争末期における度重なる米軍の爆撃により主要都市は焦土と化し,国土は荒れ,道路の荒廃は目を覆うばかりであった。
 技術者をはじめ労力,資材の不足それに財政の逼迫により道路の維持整備は放置されたままの状態で,これが戦災復興のための建設資材や原料輸送の大きな妨げになっていた。
 連合軍は,日本本土各地への進駐が本格化するにつれ,占領政策の円滑な運営を図るためまず道路の改良,舗装の新設および維持修繕に着手した。
この道路工事は駐留軍関係の需要として優先されたわけではあるが,荒廃を極めたわが国の道路の復興に及ぼした効果は大きかった。

2.6 日本アスファルト乳剤協会新生

 昭和16年に発足した日本瀝青乳剤工業統制組合は,昭和21年にGHQの指令により,解散を命じられたが,その後,国内の乳剤メーカーが製造を開始し始めたことから,翌年の昭和22年2月に業界の親睦団体として,同組合を母体とした「日本アスファルト乳剤工業会」が結成された。
 しかし,その直後の同年4月に独占禁止法が公布され,そのとき発足した公正取引委員会による審査の結果,規約,内容等を改め,同年12月1日,日本アスファルト乳剤協会として新生した。
 同年6月3日には社団法人日本道路協会が発足した。
昭和20年11月1日に設立された日本道路建設業協会を皮切りに,業界諸団体が設立,新発足したことは戦後の道路復興,業界再建推進の原動力となり,業界の活性化を大いに促した。
 また,日本経済再建復興は即道路復興にあるとの認識により,昭和23年11月GHQ(連合軍総司令部)は,日本政府に対して道路の維持修繕五箇年計画を提出するよう指令した。(GHQ覚書)
 このことがわが国の「道路法」の改正,道路整備再開の道を開いたのである。


2.7 高度成長時代への一歩


 朝鮮戦争は昭和25年6月25日に勃発した。この時期は我が国の経済が不況のどん底にあり,産業界は破綻寸前の窮地に追い込まれていた。
  この突然の動乱によって生じたいわゆる "特需景気 は戦後の低迷ムードを一掃し,我が国経済復興の追い風となった。
 またこの年,国は国土の荒廃を復興すべくこれを失業者対策により推進するという,いわゆる「失対事業」を地方自治体に指示した。
全国の都市で一斉に実施されたこの事業は道路整備に重点が置かれ,なかでもアスファルト乳剤による道路整備事業が主流であった。
一日の日当が240円であったことから,作業員は”ニコヨン と呼ばれた。
 乳剤舗装工事は,常温で使用しそれほど高度の技術を要せず,また効果もすぐ表れるということから,東京から次第に全国各地へと広がっていったのである。
 アスファルト乳剤舗装は従来から浸透式工法が一般的であり,失対事業を含めほとんどの道路舗装はこの方式で行われてきた。
  しかし事業が推進されるにつれ,より均一で安定した舗装が求められるようになり,製造業者は混合用乳剤の研究を始めた。

2.8 乳剤受難の時代

 特需景気により活気づいたわが国の経済は,朝鮮動乱により生じた反動不況の波を受けながらも,昭和30年代を迎え本格的な成長発展の時代へ踏み出した。
 一方昭和31年に入り,エジプトがスエズ運河の国有化を宣言したことから,これまで同運河を支配してきたイギリス,フランス両国の間に国際紛争(第2次中東戦争)が生じ,世界石油市場に深刻な影響を与えた。
  わが国においてもタンカー不足,石油備蓄の未整備のためアスファルト,特にアニオン乳剤に必要なナフテン系アスファルトの供給は円滑性を欠き,乳剤製造業界に先行き不安感をもたらした。
その間,業界は安定供給を求め石油業界への陳情を行いながら,片やパラフィン系アスファルトの乳化を研究するなどの努力を重ねた。

2.9 アスファルト乳剤のJIS制定

 アスファルト乳剤の日本工業規格(JIS)の制定については,これまで業界各方面から強く要望されていたが,その主原料である石油アスファルトの規格が未制定であったため,アスファルト乳剤の規格も制定をみるに至らなかった。
 しかし,昭和31年7月17日に石油アスファルトの規格がJISK2207として制定されたのにともない,日本工業標準調査会化学部会に乳剤専門委月が設置され,東京都の規格や米国のFederal Specificationなどを参照し,昭和31年8月3日から32年2月に至る6回の審議を経て,同年6月28日にJISK2208−1957として制定された(表−l.2.2)。
 種類は用途によって分類されており,浸透用と混合用とに2大別し,されにそれぞれを5種および3種,計8種に分けている。浸透用にはPenetratingEmulsionに因んでPE,また混合用にはMixingEmulsionからMEとなっている。
 石油アスファルト乳剤はこれまで,アスファルト乳剤と通称されていたが,この規格が対象とするものは石油系アスファルト乳剤に限るという建前から,石油アスファルト乳剤とし,英訳名FederalSpecificationを参考にして,単にEmulsified Asphaltとされた。
 工業標準化法第15条の日本工業規格は,制定の日から少なくとも3年を経過するごとに,規格の再審議を行う必要があるとの理由から昭和36年改正された。

2.10 カチオン乳剤の登場

 米国では,これまでのアニオン系乳剤に代わってカチオン系乳剤の研究が行われ,昭和32年には世界で初めてその製品化に成功した。昭和34年には,ソ連においても寒冷地における効果が認められ,アニオン系乳剤の欠点が十分に補足されていることが実証された。
 カチオン系乳剤は,アスファルト粒子が+に帯電してほとんどの骨材に短時間内に付着し,降雨にも影響されにくく,早期の交通開放が可能等の長所を有する画期的な新しい乳剤として注目されていた。
 我が国においても外国の文献,資料をもとにカチオン系乳剤の研究が行われ,多雨多湿のわが国の気象条件には適していることから,研究が成功すれば簡易舗装のみならず本格舗装の表層も含め中間層,路盤の常温混合など,乳剤の活用分野がさらに拡大されるものと期待された。
このカチオン系アスファルト乳剤の出現により,アスファルト乳剤需要増大の基盤が固まったと言える。

2.11路上混合式工法の普及

 簡易舗装が,いわゆる現道舗装の名のもとに国の補助事業としての「特殊改良第四種事業」事が実施されるようになったのは,第4次道路整備五箇年計画が発足した昭和39年のことであった。
・「特殊改良第四種事業」
  道路整備5箇年計画の改良計画に含まれない車道幅員  3.5m以上の未改良区間の現道についての簡易舗装

 それまで各地で施工されていた防塵処理工法は,歴青材による表面処理または,2.5〜3.Ocm厚の浸透式マカダムによるものが大半を占めていたが,交通量の増加等により,耐用期間がより長くなる工法を採用するようになってきた。そのため,従来の表面処理や浸透式マカダムの他に,歴青材を用いた安定処理が利用され始めた。
 路盤の安定処理の目的は,とりあえず砂利道の塵挨による被害を解消するため防塵処理として施工し,その後の維持により将来簡易舗装にまで発展させるための,ステージコンストラクションとして利用することであり,施工が安易なことがこの工法の普及した要因である。

2.12 スラブ軌道用A乳剤の研究開始

 昭和30年のはじめに開通した長大トンネルである北陸トンネルにおいて,当時の日本国有鉄道としては初めて直結コンクリート軌道が採用された。
これは底盤コンクリートに直接レールを締結するもので,従来のバラスト軌道と比較して維持がほとんど必要でなく,省力化ということでは優れていたが,振動,騒音がひどく,その改良が課題となっていた。
昭和39年に鉄道技術研究所からセメントモルタルにアスファルト乳剤を混合する(CAモルタル)ことにより,振動,騒音がかなり軽減できるのではないかというアイデアが出され,昭和40年からスラブ軌道用A乳剤の研究が始まった。
 スラブ軌道は,従来のような定期的な軌道保守作業を必要とするバラスト軌道と異なり,メンテナンスフリーを目標として開発された新しい構造の軌道で,いろいろある形式のうちのA型スラブ軌道に使用される乳剤が「A乳剤」である。
 各所での試験施工を重ね,昭和45年新幹線での採用が決まり,当時は東海道新幹線の部分であった帆坂トンネル,神戸トンネル,中井高架,柳井高架の各工事への納入が始まった。

2.13 乳剤の黄金時代

 昭和39年〜48年頃にかけては,カチオン乳剤の登場に加え,国が打ち出した せ現道舗装による簡易舗装によって舗装率の促進を図る「特殊改良第四種事業」により,乳剤は飛躍的に増加し,したがって表面処理のための浸透用乳剤もそれに伴って増加していった。
 生活道路の整備など全国的に高まる舗装化への需要に対応するため,各社とも簡便な補修用材等の新製品開発や改良に積極的に取り組む一方,昭和40年頃より,これまであまり馴染みが少なかった道路用以外の乳剤需要(スラブ軌道用乳剤,テニスコート用カラー乳剤等)の開拓を目指して研究,試験施工などを重ねてきたわけであるが,ここにきてそれらが一斉に製品化され採用され始めたのである。
乳剤業界にとって正に黄金の時代と言える。

2.14 乳剤の低迷期を迎える

 昭和39年より簡易舗装が回の補助事業として推進され,加えてカチオン乳剤の出現により,急速に乳剤は全国的に普及した。しかし舗装が更に強度を求められ段々と高級化するにつれ,加熱プラントも相次いで設置されていった。
したがって,とりあえず挨のたたない道路をという時代には重宝がられた乳剤も,昭和45年の生産量71万tをピークに年々減少の一途を辿り,ついに昭和55年には30万t台にまで落ち込んだ。
以後は30万t強の横ばい低迷状態が現在にまで至っているのである。